悲愴感を漂わせたら大体負けます。②
2023年12月11日
続きです。
「失敗する」この時人の心の中では「過去の否定」と「未来への不安」が同時に起こっています。例えば中学入試ですと「教育に投じた時間、金銭、子どもの努力・親の苦労」の全否定と「進学する価値のある大学に進学できるのか」「学歴で人生が不本意なものにならないか」「劣等感を持たずに生きていけるか」などが心中で混ざり合い渦巻いているのです。「今」という貴重な時間を犠牲にし、そういうことで頭を満たしてしまう方は老後になっても「昔、あーいうことこーいうことをしておけばよかった」とか「この先、年金の範囲内で無事生きていけるのだろうか」とか「過去の後悔」と「未来の心配」に苛まれて1日を過ごしてしまうのです。これは「今現在を生きている」という実感がない「不安だけの毎日」でしかないのです。要は「死ぬまで心配から解放されない生き方」なのです。これで幸福な人生と言えるでしょうか?
私は「失敗」というのは主観であり実態のない「幻」だと考えています。そう思わなければ失敗ではなく、第三者がいくらそう言ったとしても自分が認めなければそれは失敗ではないと思うのです。「幻」に苦しめられる人生からそろそろ脱却しなければいけません。
失敗は大抵「想定外であり且つ不本意なこと」を指します。想定外のことは誰にでも起きます、しかし不本意かどうかは主観の問題であり、結果を素直に受け入れてしまえば(成功とは言えないまでも)失敗とも言えないのです。むしろ「想定外の出来事」こそが「見えないものに導かれた結果」=「成功」なのかもしれないと、腹を括って受け入れてしまった方がいいのです。
「成功」というのも本当は「失敗」と同様に主観的なものであり実態はないのです。しかしここは自分の都合で「失敗」は幻で「成功」はリアルである、と割り切ってしまった方が生きていくうえで楽なのです。こういう方は悪く言えば「自己中な人」「図太い人」なのでしょうが、良い意味で解釈すれば「主体的に生きている」であり、このように自分の人生のスタイルを自身で構築できる人がなんやかんやで一番幸せな人なのかもしれません。「目の前に転がっている全ての不安(課題)が解消されないと幸せを掴みことはできないし、幸福になる資格も得られない」と杓子定規に生真面目に考えすぎる人はいつまで経っても気持ちよく生きていけないのです。私たちは「課題解決」のために生きているわけではないのです。
このお話は次回に続きます。