中学受験は個別指導で成績伸び率の差が出る!!

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国語対策法を伝授

特記 夏期講習につきまして。

2019年7月16日

 午前の授業は全て満席となりました。
 午後〜夜もほぼ満席で、コマ数も100に近づいてきましたので、今年こそは「働き方改革」を実行したいと思います。ですので、そろそろ講習の受付を終了させていただきます。
 
 また、講習期間中は多忙につき、ブログの更新を頻繁に行うことが難しくなりますのでご了承ください。
 上記と併せ宜しくお願いいたします。

 ※当塾の社是は「結果がすべて」です。この方針は開校以来ブレることなく、マンツーマン指導の中で妥協とは無縁の授業を行ってまいりました。
「なぜアイスクールは出口が良いのか?」というお問い合わせをご父兄様、また近隣の個人塾様からいただくことがあります。こういうご質問には「それは私が結果が出ない、出せないことを異常に嫌う性格であり、だから必然的に妥協知らずの指導になり、その指導下では必然的に好結果を得られるようになるからですよ。これが理由です」と説明しています。当塾の方針にしっかりついてきた素直な生徒さんは受かります。しかし素直さに欠け、自分に妥協する生徒さんは落ちます。物事の原理原則は極めてシンプルな理屈で成り立っているのです。受験を通してそこに気づくことも大切です。

 さて、大手塾に「なんとなく通い、そこでなんとなく授業を聞いて、なんとなくボーッとして・・そして成績はそこそこ以下」を繰り返してきた生徒さん。それでもいい、自分はその程度の人間、と危機感を抱くこともなく日々無為に過ごしてきた皆さんは、いくら夏期講習で長時間缶詰になったとしても、そのマインドが変わらない限り、肝心の実利を得ることなく、得られるのは「忍耐力」「頑張ったという錯覚」「根拠のない自己満足感」だけということになるでしょう。実利とは受験生にとって成績向上、クラスアップ、最終章での中学入試成功という流れそのものです。要は成功体験を得ることが本当の実益なのです。それ以外は一切ありません。逆に言えばこの流れ(実益)を得られない塾通い・講習参加は本当に意味がないのです。実益を得ることがすべて。だからその実益とは関係ない副次的な「根性出しました、頑張りました、真面目にやりました」を声高にアピールするのは基本的にどうでもいい行為であり、むしろこういうのは成績が上がらない時の言い訳・免罪符に利用される「害」でしかありません。本物の「根性」「頑張り」「真面目さ」とは、「成功した今があるのはあの時はよく頑張ったからだ」と後々しみじみ振り返ればいい類のものなのです。
 そろそろ気づかなければなりません。「何のための塾通いなのか?」「何のための講習なのか?」「そもそも自分は何をしたいのか?何を求めているのか?」を。
 残念ですが気づかなければ全ては「❌ゼロ」なのです。「講習に参加している俺偉い」という自己満足の中でひたすら時間を浪費することになるのです。しかし、そうなったとしてもそれは誰のせいでもない。変わろうとする気概のない自分、此の期に及んでも現状維持したがる甘い自分、現実を直視しようとしない弱い自分、全部自分のせいなのです。

 覚醒ください。「茹で蛙」に成功は訪れません。そして夏期講習では「本当の実益」を得られるよう自分のマインドを変えていきましょう。
 
 

入試には「これがないと受からない」というのがあるんです。

2019年7月10日

※ (外部の方向けの)夏期講習の募集ですが、空きが少なくなりましたので、そろそろ終了させていただきます。毎年のように「今年こそ仕事量をセーブしたい」と願い、あれこれ試みるのですが、本年の夏も「働き方改革」とは無縁になりそうです。まあ、仕方ないですね。皆さん頑張りましょう。

 四谷大塚の第2回合判テストが終わりました。夏休み直前の模試でしたので「このテストで1学期の学習成果を見てみたい」という理由で受験された方も多かったと思います。そして夏休み直後の第3回模試では「夏休みの成果を総括したい」という意図で受験されると思います。そういう訳で夏休み前後の模試は気合いが入るのですが、その気合い通りシナリオ通りの展開になることはまずありません。おそらく失望されることの方が多いと思います。そしてその都度「このままで本当に大丈夫なのか?」と疑心暗鬼になり、『うちの子の成績を上げてくれる理想の環境はどこ?」とばかり、親御さんはアタフタして「青い鳥探し」を始めるのもこの夏休み前後なのです。本当のことを言いますが「青い鳥」は心の内に既に宿っているのです。それに気づかず、外部に求めようとしてあちこち動き回り時間を浪費し疲弊してしまうのは例年通りの「あるある」。よく見る光景です。
 さて、真面目に塾に通っている、家庭学習もやっている、なのに成果が出ない、には理由があります。
 これは非常に根本的な理由であり、(毎年言えることですが)この要素の有無で入試の合否が決まります。
 当塾はそこに着目し、伸ばすなり矯正したりするなどして成果を上げています。本当にしつこくそうします。
 これは集団塾ではなかなかできません。無理なのです。また、いちいち指摘してくれたり触れたりしてもらえる類のものでもありません、が、一番重要且つ根本的なことですので、「本当に生徒を受からせたいと願う塾」ならそこに関わらないわけにはいかないのです。
 「当塾おまかせ生徒」さんの入試結果が良い(5年連続第1志望校合格率100%)のは「外部(集団塾)からの余計な雑音が入らない環境下で、そのことに集中できるから」なのです。何事にも「根本原理」があります。ですから「合格への根本原理」を知らずして受かることはないのです。

 それがないと「全ては✖️ゼロ」になります。しかしこれにつきましては、ほとんどの方がわかっていません。
 詳細はお伝えできないのですが、本当ならできる早く気づき、解決していただきたいことなのです。

 次回に続きます。
  



「物事の根本原理の理解」 成功の源は全てここにある。

2019年6月26日

 続きです。
 前回も少し触れましたが、本日は「公式」のお話をします。「公式を当てはめてチャチャッと解くのが算数という科目」と、「算数のできない生徒」に限ってそういう勘違いをしがちです。ドラえもんのポケットに頼るのび太の如く「公式さえ覚えていれば大丈夫」とばかりに。しかし裏を返せば「公式を忘れてしまったら、もう算数の問題は解けない」と早々に匙を投げてしまうのです。しかしそういう生徒さんは、そもそも公式の成り立ちを理解しているのでしょうか?そこを追求したことがあるのでしょうか?何の疑問も抱かず思考停止のまま「覚えろと言われたから覚える」で真の思考力が鍛えられるのでしょうか?
 例えば「円の面積は半径✖️半径✖️円周率」「円周は直径✖️円周率」で求められるのですが、どうしてこれで円の面積や円周が求められるのか?「半径✖️半径✖️円周率」と「直径✖️円周率」は一見似ているのに、どうして答えがそれぞれ面積になったり円周になったりするのか?そのあたりの疑問をですね、追求しようと試みるのか、それともスルーしてしまうかが、「算数の根本原理の理解」ができるか否か、ひいては算数の成績が伸びるか否かを決定づける要因になってしまうことを、もう少し真剣に考えてみてもいいのかな?と思うのです。
 また、社会にも「公式」があります。例えば「法律案の再可決には衆議院議員の出席人数✖️3分の2以上の賛同が必要」というものがあります。生徒さんは前回の「カンノワノナノコクオウ」のようにひたすらその暗記に努め覚えたとしても「衆議院の定数は(  )人です。定足数は(  )人ですので、法律案の再可決には最低(  )人の賛同が必要になります」みたいな「変化球問題」になると途端に固まってしまいます(笑)。自分が覚えた公式を活用できない。こういう事態に陥る生徒さんは本当に多いです。つまり「自分が覚えた公式は一体何なのか?」その理解を算数でも社会でもできていない生徒が多いのです。だから活用できないし使えない。これでは「柔軟に頭を使うことが求められる中学受験」では太刀打ちできません。
 「公式を使ってチャラッと解く」「暗記したことを吐き出す」これで済むような問題を、そもそも優秀な生徒を集めたい中学側が作成するわけがない、という想像力をお持ちください。
 中学受験云々に限らず、自分で頭を使おうとしない人は不本意な人生を歩むことになります。考えることを億劫がり、自分の人生を他人任せにしてしまうことが多いからです。自分の無知につけ込む他人の言動やメディアの情報を信じ切って、いいように操られてしまうからなのです。例えば今話題の年金問題にしても、(誰もそんなことは言っていないのに)「年金さえあれば100年安心して暮らせるはずではないのか?政治家は嘘をついているのか❗️」と批判をしている人は、年金の仕組みについてきちんと勉強していないからそのような的外れな発言をしてしまうのです。年金はあくまでセーフティネットの一部としての役割でしかありません。自分で考えられる人は「老後資金はキャッシュとフォローのバランス次第」を意識しつつ、まず自分への年金支給額を明らかにします。そして老後に不安を覚えるなら、貯蓄したり(株式・投信・不動産など)に投資しキャピタルゲインを得たり、自分なりのポートフォリオを計画的に作成していくのです。しかしその程度のことは(諸々の仕組みがわかっている人は)とっくの昔からやっているのです。浪費を控え、貯蓄率を高めようとする日本人の国民性はどこからくるのか?それはこういう国だから、、、だということをよくよくお考えください。人生にも「公式」はあります。ですが、それを鵜呑みにせず「考える・疑う・検証する」と、自分なりに消化していかないと「こんなはずではなかった」ということが起こり得るのです。
 「自分で考え自分で工夫し自分で理解し自分でそれを活用する」そして「自分の人生を優位に展開していく」。これが本当に頭のいい人の生き方なのです。東大を出ているから「頭がいい」ではないのです。生き方の上手い人を「頭がいい」というのです。
 合格を目指すための中学受験の準備は「賢い生き方を構築するための下地作り」をも兼ねている、そのようにご理解ください。
 次回に続きます。

「社会は暗記科目」とは いつの時代の話ですか?②

2019年6月15日

※ (外部者向けの)夏期講習の募集を開始します。ただし(毎年のことですが)レギュラー生でほぼ埋まってしまいますので、その点はご了承ください。

 さて、「温故知新」「歴史から学ぶ」「歴史は繰り返す」という言葉にもあるように、社会科学習の本来の意図は「そこで得た知識から因果関係を学び、それを今に生かす」にあると思うのです。ただ、そのようなことを考える余裕がないくらい、社会は学ぶことが多いので、結果的に「ひたすら暗記科目」になってしまいます。それは仕方のないことかもしれません。
 確かに暗記力がそのまま社会の成績につながることもありますが、それでどうにかなる、という入試問題は近年減りつつあります。社会もその他科目と同様「考える科目」なのです。暗記したものを吐き出して済む科目ではなくなったのです。「考えて覚える」これが大事ですね。
 例えば「後漢書東夷伝」にある「漢委奴国王」。これを覚えるとき、生徒さんは「ゴカンジョトオイデンカンノワノナノコクオウ」をひたすら繰り返し覚えようとします。暗記することに精一杯、「後漢」「東夷」「倭」「奴」の意味を確認せず、そもそも自分が何を覚えようとしているのかさえ知ることもなく、ただただ呪文・暗号を記憶するが如く「無味乾燥な暗記」を繰り返す、これが社会の勉強だと勘違いしている生徒も非常に多いです。ですから「「○書」に記された小野妹子は・・」という問題が出たとき、「そういえば漢書地理志ってやったな」と覚えていた子は、それを頼りに○の中に「漢」を入れてしまうでしょうし、そもそも「漢」が国名だということすら知らない子もします。しかし、この問題は後に小野妹子が出ていますので、○には「隋」が入ることくらい、歴史を理解して覚えている生徒にとっては何てことはない問題のはずです。また、「漢委奴国王」を覚えられない生徒も理屈で覚えようとしないから記憶できないのです。これはつまり「中国(漢)に属する日本(倭)の中にある奴国の国王、つまり大国から小国に順に記した「漢側からの上から目線の表記」だと理解して覚えれば「漢奴委国王」みたいに間違って覚えることはないのです。
 それは地理も公民も同じこと。「なぜそうなのか?」を理屈で覚える。このように「なぜ?」という疑問を持ち、学習して行くのが本来の勉強なのです。
「暗記する」「公式に当てはめる」「講師の指導を鵜呑みにする」そのような手段頼りの「思考停止の学習」、また「まだ習っていないからできない」「教えてもらっていないからわからない」という、「自分で考えることを放棄したような他人依存型の甘えん坊学習」では、「答えがわからないことを解決しなくてはならない状況」に陥ったとき、為す術もなくお手上げになってしまいます。
 世の中は答えのわからないことに満ち溢れています。そのようなときにでも自分で思考し、自分で打開し、自分で行動する力を身につけておくことが大事なのです。それができない大人は大人ではありません。それは単に「年を重ねただけの人」「尊敬の対象にならない人」でしかないのです。
 「ゼロから1を導き出す」「自分の人生は自分で構築する」ことが尊いのです。年少時の勉強はそのための訓練なのです。そこを違えず学習して行きましょう。

「社会は暗記科目」とは いつの時代の話ですか?

2019年6月03日

※ 既報通り今年はすでに満席、なのですが、それでも頻繁にお問い合わせをいただいています。ありがたいことなのですが、レギュラー授業は本当に空きがなく、その都度お断りすることを大変心苦しく、また申し訳なく思っています。以降、もしまとまった授業をご希望でしたら、それは「夏休み」などの長期休暇・祝日です。外部の方にはなるべく時間をお取りするようにしますので、そこで学力を一気に上げる計画を立ててみてください。効果は期待できます。よろしくお願いします。(スポット授業・来期のレギュラー授業ご予約は可能です)

 さて、今回は社会のお話ですが、昔から「暗記中心の楽勝科目」「追い込み可能な科目」と言われています。そして、ガムシャラに闇雲に覚えさえすれば、それだけで点数が取れる、と思われている科目でもあります。「自力で何とかなるはず」というイメージの強い社会。そのせいか当塾でも「社会単品受講」を希望する方はいらっしゃらず、算数国語理科と比べると何となく脇役感のある科目だという印象です。しかし、本当に「楽勝科目」「舐めていい科目」なのでしょうか?
 上記のように社会が暗記重視の科目なら「暗記能力」つまり「一度覚えたことをどれだけ忘れずに保てるか?」「脳という引き出しに、どれだけ多くの知識を詰め込むことができるか?」その優劣を競うような、まるで「自分の頭をコンピューターにどのくらい近づけられるか?」を目指すだけの科目になってしまいます。だとしたら、本当につまらないですね。「社会がつまらない」と思っている生徒さんはこういう方向での学習をしてしまっているので、無味乾燥に感じてしまうのかもしれません。だとしたら、本当に勿体無いですね。
 「暗記科目」という一面を社会が持っていることは事実なのですが、本当は「暗記自体を目指す科目」ではなく、「学ぶうえで暗記は必要最低条件に過ぎず、大事なことは覚えた先にある個々の事例についての思考、更にそれぞれの因果関係を深く追求していくことを目指す、それが社会という科目の本質だ、という認識」がないと、昨今の入試問題の傾向に太刀打ちできないのです(特に上位校)。昔のように「暗記したものを只々吐き出すだけのテスト」はもはや存在しないと思ってください。社会も他と同様「考える力が求められる科目」なのです。
 次回はこのお話につきまして詳細を述べさせていただきます。

 
 

講師が教えれば教えるほど、生徒の合格が遠ざかっていく理由。⑤

2019年5月23日

 前回の続きです。
 入試は「他者より一点でも多く得点し、他者より一点でも少ない失点に留めた生徒が受かる」が原則です。勘で得点した、という幸運もあれば、ケアレスミスで失点してしまった、という不運もそこに含まれ、そういう不確定要素も含めて「実力」というのでしょうが、基本的には「合格ライン突破に必要な点数を自力で稼げたかどうか」で勝負は決まります。
 「自力で得点できる子にする」のが塾の役割なら、「わかった」を「できた」に「昇格」させなければいけません。多くの塾は「生徒をわからせた」という水準で役目を果たせた、と考える傾向にありますが、そこから「できる」を達成させないと意味がないのです。
 例えば逆上がりのできない子に「逆上がりのノウハウビデオ」を見せたとします。生徒は「やり方がわかった」と感じ、いそいそと運動場に向かうのですが、実際に鉄棒を握ってトライしてみても「できる」には至らないはずです。何より実践が大事。最初は教師から手取り足取りの指導を受け、体を支えてもらいながら何とか成功するのですが、これも「できた」ではありません。誰もいないところで自力でくるくる回らないと「できた」とはならないのです。(いつも疑問なのは「なぜ学校の体育教師は生徒全員が逆上がりができるまで、泳げるようになるまで指導しないのか?」ということです。職務怠慢では?指導工夫が足りないのでは?と考えてしまいます。)
 そうなるかならないかは自分次第なのですが、そこに至らせるため教師(講師)は手取り足取り面倒見よく・・ではなく、「放っておく」「自分で考え工夫する時間を与える」ことが大事なのです。
 「講師の予習禁止」の意図はそこにあり、簡単に言えば講師にとっても初見かもしれない問題を生徒と一緒に考えるため、ということなのです。「指導ではなく一緒に考える」「一緒に考えることで生徒の思考回路を知る」それに時間を使います。この授業方法は個別指導を行う当塾の特徴で、生徒さんの考える時間を何よりも重視する授業スタイルをとっています。そうすることで、生徒さんは自分で考え工夫する時間を多く使え、自分で考える習慣が身についていきます。講師も横で一緒に考えつつ(考えているふりをしつつ)、生徒さんの思考手順・工夫と自分のそれとをシンクロさせ、必要とあれば「適切且つ最小限のアドバイス」を提示します。これは「授業がわかりやすい」「先生の説明がわかった」など自己満足で終わらせるのではなく、「本番でも自力で考え解ける子、ひいては受かる子」を養成するためです。何度も言いますが「わかった」と「できた」はまるで違うのです。最終的に「自分でできる子・受かる力のついた子」にして入試会場に送り出すところまでが塾の役目なのです。
 当塾の「四教科お任せ生徒」の第一志望校合格率が高いのは、余計な雑音を入れずに、ひたすらこのような授業を継続してきた結果なのです。
 永田の授業はとにかくしつこく妥協しません。とことん追求します。生徒さんの「できた」を自分の目で確認するまで信じられないからです。ですから生徒さんの自己申告による「わかった・できた・頑張った」を聞いて褒めたり喜んだりすることはありません。講師は「生徒は自分にとって都合の良いことしか言わないものだ」という前提での「生徒に対しては疑心暗鬼で接する」くらいがちょうどいいのです。(そもそも中学入試は(悪く言えば)「他者を出し抜き、人生をより優位に展開させるための前哨戦」=「自己中心的な思考に基づくもの」ですので、その経過の「頑張り」「努力」はあくまでも「自分のため」もしくは「親のため」のものです。ですから講師とはいえ他人がいちいちその過程を褒める必要もなく、また褒める対象のものでもないと考えています。しかし「自力で考える」ことの大切さに目覚めた生徒さんは純粋に褒めたいと思います)
 私が直に確認し「これは大丈夫だ」と折り紙をつけた子は受かります。そしてそれ未満の子にはその水準に至ることをしつこく求めます。手取り足取り指導、面倒見の良さ、は一見良心的なのですが、「自分で考え自分で工夫する子を育てる」とは真反対のベクトルに向かわせてしまう危険性があるのです(それどころかベクトルさえ作れなくさせてしまう)。タイトルにもある「講師が教えれば教えるほど、生徒の合格が遠ざかって行く」というのはそういうことなのです。
 塾が「良いと思って信じて疑わない金科玉条的な指導法」が本当に生徒さんに実利をもたらせているのか?、を一度検証してみることも大事なのかもしれません。
 次回は新テーマです。

特記 今年の空き時間につきまして。

2019年5月16日

 既報通り、今年は既に満席ですが、唯一日曜日の16〜18時のみ空いています。
 本来、この時間帯は永田の休憩時間に取っておいたのですが、受講希望者が多いので開放することに致しました。
 学力の底上げ・苦手科目克服など、ご希望の方は上記時間でご利用が可能ですのでお問い合わせください。
 ただし、スポット授業・先着順、豊洲近辺(月島・晴海・東雲など)にお住まいの方に限らせていただきます。
 よろしくお願いいたします。

講師が教えれば教えるほど、生徒の合格が遠ざかっていく理由。④

2019年5月14日

 続きです。
 当塾が一貫して申し上げていることは「過程も大事だが、それ以上に大事なのは結果」、つまり「志望校に合格することが最重要」だということです。それは塾として当たり前の目標なのですが、「志望校に合格する」にはどうすれば?そこを(生徒も講師も親御さんも)真剣に突き詰めていかないと、望ましい結果を得ることは非常に困難になります。
 突き詰め方が甘いと、つい「頑張る」「一生懸命」「努力」など抽象的精神論でお茶を濁しがちになりますが、しかし、それらは受験生として備えておくべき大前提ですので、これらを目標にすること自体おかしいのです。そこはお気づきください。
 入試に成功したい、を真剣に考え、どうすればいいか?を真剣に突き詰めて考えるなら答えは一つしかないのです。それは「全ての問題で失点を無くし全ての問題を得点化することを目標にする」です。これを実現すれば落ちることはない。当たり前の話です。では、その実現するためにどうすればよいのか?これを実現させるもさせないも自分次第、「自分で何をすべきか考えられる能力、その考えたことを実行する能力」を身につけるしかないのです。これが受験生が最も優先すべきことであり、講師・親御さんはその実現に向けたサポートを第一に考えるべきなのです。
 「自分で考え自分で工夫し自分から行動する子(生徒)にする(になる)」この大前提がないと「失点皆無・全て得点化する作戦」は実現しません。試験会場には自分しかいない、頼れるのは自分しかいない、そして受からなければならない、そうであるなら、自分を「誰よりも頼りになる存在」に格上げするしかないからです。「自分の格上げ」は自分しかできないのです。
 しかし翻って現実はどうでしょう?子どもたちは親に叱られて仕方なく勉強し、塾での一方通行の授業では聞き手に徹し、それでいて(心にもない親からの受け売り言葉である)「受験は自分のためにする」を、しれっと言ってみたり・・など、「自分で考え自分で行動する」という理想とは逆の日々を過ごしているのです。入試では「これではいかん❗️」と気づき早めに自己改革した生徒が受かり、いつまでたっても「受け身のお客さん」のまま入試日まで過ごしてしまう生徒が落ちるのです。これは毎年変わらない真実なのです。
 ですが、「自分で考えない行動できない受け身の子(生徒)」にしたのは、紛れもなく大人です。親の過干渉、学校の命令・規則の過多、塾の面倒見の良すぎる手取り足取りの授業が、「大人の言うことに唯々従っていればそれでいいんだ」という思考停止の子を大量に生み出してしまうのです。思考停止の子は「解決策の全てを大人が提示してくれる」「大人の言うことを聞いていれば問題ない」と考えてしまいます。例えば校則。何の根拠も合理性も確認できない校則に、頭ごなしに慣習的に生徒に従わせる教師、それに何の疑問も持たず盲目的に従う生徒、複雑化していくグローバル社会に柔軟に対応していくことが求められる昨今なのに、学校というところはそれに欠かせない「自分で考え行動する能力」を育てる意思がないのではないか?と、疑問に感じてしまいます。ですから「真面目で大人しい子」と評されるなら、それは「大人にとって扱いやすく都合のいい子」に近い意味ですので、喜ぶのではなく、むしろ「バカにされている」と、危機感を持ったほうがいいと思います。(そもそも「真面目」と「大人しい」はまるで違う意味なのに、これらをセットにして人物を評することが多いのも疑問です)
 思考しないことに慣れきった子供は大人になっても状況に流される人間、そして保身第一の人間になっていきます。「会社では上司のいうことに従っていればいい、口答えすると自分が不利になるから」「自分は不本意だが親の期待に沿っていればいい、親不孝と罵られるのが嫌だから」「権威あるマスコミやSNS の情報は信じる、多数に合わせておけば無難だから」「みんながそう考えるなら私も賛同する、仲間外れにされたくないから」その結果、「どうぞ私の生き方を皆さんでご自由にお決めください」みたいな主体性のない、自分の可能性を自ら狭めてしまう大人を量産してしまうのです。保身を図ったつもりが却って一度しかない人生を台無しにしてしまうことになる。皮肉な話です。生殺与奪権を他者に握らせてしまうくらい惨めな生き方はないのです。
 中学受験では志望校に受かることが大事、しかしそれが自分の考え・行動に基づいたものではなく、親の言いなりでどうにか実現してしまった、だけどそんな生き方をしてきたから大人になっても自分で物事を考えられませーん、それでは「学歴だけは素晴らしいバカ」と言われても仕方のない人間になってしまいます。

 前回の「講師の予習禁止」の話はここに絡んできます。
 前置きが長くなり、今回は説明できませんでしたが、次回はその説明をしてまいります。

 
 

講師が教えれば教えるほど、生徒の合格が遠ざかっていく理由。③

2019年5月07日

 続きです。
 大手塾では講師は授業前に職員室で予習しておくのが通常です。それは滞りなく授業を行うためなのですが、しかし、個別指導塾の講師は「前コマがサピックスに通う御三家志望の生徒、中コマが四谷に通う中堅校志望の生徒、後コマが当塾お任せコースの生徒、本日計3コマ」というように、志望校が一人一人違う、使用教材も毎回違う、質問される内容も違う、能力も違う、個性も違う、つまり毎日が「リハーサル無しのぶっつけ本番」、終日テレビで生放送をするようなもので、その日にどのような教材を使うのか、どのような質問があるのか、どの科目を中心に授業するのかは(特に四教科お任せ指導の場合)当日蓋を開けて見るまでわかりません。要は予習ができないのです。「四教科お任せの講師」は中堅校から御三家レベルに至る全ての科目においてノウハウを持ち、また一人一人の生徒の個性に合わせ授業を行わなければならない、という使命があるにもかかわらず、前述の通り予習できないという前提での授業となりますので、集団塾での指導の何倍もの緊張感・労力・知力を必要とします。ですので、個別授業の四科担当講師は全てにおいて水準以上のスキルがないとなかなかできる務まるものではないのです。
 さて、滞りなく授業を行うために講師が予習しておく、ことは必要かもしれません。しかし、塾にとって大事なことは「スムーズな授業」ではなく「生徒の学力を伸ばすこと」です。そのことを最優先した場合、前もって予習しておくことには弊害があるのです。それは「講師が生徒目線での授業を行えなくなる」ということです。実はそのことを講師自身が気づいていないことが多いのです。予習しておく、というのは(悪く言えば)「前もってなぞなぞの答えを知っていて問題を出すようなもの、はっきり言えばズルに近い行為」なのです。例えば、問題を解くのに生徒が時間をかけてあれこれ悩んでいるのを見て「どうしてできないの、さっさとやりなさい」とイライラする講師がいますが、それは自分が前もって予習していて答えを知っているからそう言えるのです。そのような「上から目線」になってしまうと、「生徒が何に悩んでいるのか」「どこがどうわからないのか」「どういう思考で解こうとしているのか」ということまで細かく分析・斟酌することなく、ひたすら「スムーズな授業」を行うことを重視するようになってしまうのです。「集団塾に通っているのに成績が伸びない」そのほとんどは生徒の聴き方自体に問題があるのですが、講師の側に責任がないというわけでもありません。生徒の思考方法に潜り込み、それに合わせ臨機応変に対処できる講師が「わかりやすい授業をする講師」と評されます。授業がわかる→授業が楽しい→これがきっかけで成績が伸びた、にしていくことが講師の務めですね。
 また、講師にとって当たり前のことが生徒にはわかっていないことが多い、そのことにも講師は気づかなければなりません。例えば理科のテコで使う「モーメント」、算数で使う「逆比」「三角数」などの専門用語。これはそれぞれの科目を担当する講師が授業時に頻繁に使う言葉ですが、そもそもそれは生徒が「モーメント」の意味を知っている、という前提で使っていると思うのですが、本当にわかっているのか?その基本中の基本から疑ってみる必要があります。何の前触れもなく、いきなり「専門用語」を多用したら生徒は混乱するのでは・・、これくらいの想像力は欲しいのです。以前当塾の生徒が「〇〇塾で理科の先生がモーメントモーメントと言っているが、何言っているのかわからないから、テコの授業そのものがわからなくなった」という例がありました。このように「講師にとっては当たり前」のことが「生徒の躓きの原因」になっていることも多いです。特に外来語を多用する講師の方は「この言葉の意味を生徒は本当に理解しているのだろうか?」と考え慎重に使うべきなのです。そういう細かいところまで留意しないと「客の性別や年齢層、その方々の思考回路に配慮することなく、ひたすら専門用語を使いまくり、訳の分からない説明を独善的且つ一方的に行う携帯ショップの担当者」と同レベルになってしまいます。そのレベルの授業では生徒はついてきません。集団授業では、わからない説明に対し、いちいち「先生、モーメントってなんですか?」「先生の授業はわかりませーん」などと大勢を前にして「親切な指摘」をしてくれる勇気ある生徒はいません。諦めるか、授業を無視するか、ぼーっとするかで対処するのです。静かな教室は「みんな集中しているから」ではなく、「みんなが授業を放棄しているから」かもしれないのです。そこに気づくか気づかないか、講師には感性が求められるのです。鈍い人は何をやってもダメですが、とりわけ教育業・講師業には向かないのです。「先生の説明はよくわからない」と言われる講師は先ほどの「携帯ショップの店員」と同レベルであることが多いので、生徒の「声なき声」に耳を傾け、今一度御自身を客観視し、真摯に研鑽を積まれることをお勧めします。
 ところで、当塾が前回申し上げた「講師の予習禁止」であるのは、そもそも予習できる授業形態ではないから、生徒目線での思考ができなくなるから、なのですが、もう一つ大事な理由があります。
 それにつきましては次回お話しさせていただきます。

速報  レギュラー授業の空きコマにつきまして。②

2019年4月27日

下記の日曜日の授業も埋まりましたので、今年は満席です。
ですが、祝日などで空くことがございます。そこでのスポット授業は可能です。
受講ご希望の方はお問い合わせください。

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