「何のために受験するの?」。⑥
2010年5月02日
「受験勉強をすること自体が重要である。」というお話で前回は終わりました。では、その意味は?というのが今回のテーマです。
「6年生になるまで塾とは無縁で、でも友達が塾に通っているのを見て自分も受験したくなった。」と理由で当塾に通い始めた生徒が何人かいます。「もう、手遅れ。無謀なチャレンジだ。」と切り捨ててしまう同業者もいるという話ですが、はたして、そうでしょうか?なぜなら、私が過去に受け持った生徒の中で目を見張るような成果を挙げているのが取りも直さずこの「6年生からの入塾組」だったからです。
彼らは概して真面目です。当塾では自習室が開放されており、要望があればいつでも使える態勢にありますが、そこはいつも彼らの「指定席」になっています。
当初は「ああ、背水の陣で臨んでいるから必死なんだな。」という程度にしか思っていませんでした。が、よく観察してみると「学習を楽しんでいる。」というか、「学習に飢えている」。ちょうど発展途上国の子供たちが老朽化した教室の中でボロボロの教科書を使いながら、ただ、目だけはランランと輝かせて学習に取り組んでいる・・という状況に近い空気をつくっているのです。
「受験勉強をさせるのはかわいそう。子供は子供らしく伸び伸びと育てるべきだ。」という声も聞きます。「勉強させる=子供への虐待?」という発想なのでしょうか?
しかし、塾に通わない「今どきの普通の小学生」の実態は親御さんの世代と比べるとそれほど理想に近いとは思えません。「三丁目の夕日」の頃の「伸び伸びした子供像」は今では幻想なのです。それを期待することはできません。
放課後、クラスの友達の何人かは塾に通いますので人数が必要な野球・サッカーといった集団での遊びはできません。公園も昔とは違い「球技禁止」のところが多いのです。そこで、友人宅に集まるのですが、そこでは各自がDSなどのモバイルゲームを持ち込み、ひたすら無言でゲームです。帰宅後は夕食をとり、またゲーム、もしくはテレビ。そして、ほんのわずかな学校の宿題でさえいやいや仕上げ、その日は終了です。そして、これが卒業時まで続く。これが現状です。
「受験勉強はかわいそう」という親御さんの中にはご自身が勉強嫌いでそれに苦しんできたか、もしくは受験に失敗し「勉強アレルギー」になったか、そういうトラウマを抱えてきた方が多く含まれているのではないかと思います。(受験に成功し、それがきっかけで満たされた現状を築かれた方はこのような発想はしません。むしろ自分の子供にも同じような体験をさせたがるはずだからです)。
「自分が嫌いだった勉強を子供にやらせるのはかわいそう。やらせたとしても自分がやらなかった分、子供を説得させることもそれを言う資格もない」。と考えている「優しい親御さん」がいらっしゃるなら一言申し上げたいのは「ご自身の人生とお子さんの人生をだぶらせて考えないこと。両者の人生は全くの別物である」ということ。先日も申し上げましたが、大切なことは「この現状を生きていく中で何をすることがお子さんにとって最も優位に働くのか?」を考え、それを実行に移す。まだ右も左もわかっていない子供を人生の先輩である親がしっかりリードしていく。これが本当の「優しさ」ではないでしょうか?(「放任主義」を賞賛される方は一見すると「子供に理解のある優しい親」ですが、私には単なる「子供に嫌われることを恐れ、これを隠れ蓑にし、育児を放棄している無責任な親」としか思えません)。「子供を線路に乗せる」とは悪評高い文言ですが、それは親のエゴでも、子供の自由を奪うものでもありません。そんな風評に惑わされず自信をもって主体的に行動していただければと思います。
閑話休題。話を戻します。
ゲーム漬けの日々。仮にゲームで目標をクリアーしたとしても一体何が残るのでしょう?一時の「自己満足」だけでそれは時間の経過とともに泡のように消えていくでしょう。時間つぶしの日々からは何も生まれません。そこから生まれるのは学習習慣が身につかなくなること、そしてそれによる圧倒的な知識量の不足です。これから先何をするにせよ、この二つが改善されない限り前には進めません。改善しないと志がいくら高くても三日坊主、挫折の繰り返しで終わることでしょう。
冒頭で述べた「受験勉強をすること自体が重要である」。
そろそろこのように申し上げた意図がご理解いただけるかと思います。
本日はここまで。次回に続きます。