苦しみの先には喜びが・・という生き方はしない。④
2023年9月24日
続きです。
人間の幸不幸は、自分の行動が自律的なものか他律的なものかその量で決まるというのが私の考えです。例えばゲームに講じている子がいたとします、そしてある日ゲームが学校の授業で取り入れられ、クリアした数が成績に反映される、さらにゲームが毎日の宿題としてノルマ化される、なんてことになってもゲームを楽しく続けられるかという話なのです。海外旅行は好きだけど、同じヨーロッパに行くにしても会社の出張だとそれほど楽しくはないですね。つまり誰かに支配された他律的な行動はつまらなく、そればかりだと不幸だということなのです。
学校においても家庭においても子どもは他者に縛られています。ちょっとした隙に・・とか、親の目を盗んで・・とかそんな時でないと自分の好きなことはできません。つまり毎日毎日がほぼストレス状態であり、そこに先生や親の叱咤が加わればもう地獄のような日々になります。
私の体験で申しますと子育てで一番いいのは「放置」です。放任とか無責任とかそういう意味ではありません。「見てないフリをして遠くで見ているだけ」に留めておくのです。これは塾生に対しても同じです。そういうことを言いますと親は不安になります。「親が何も言わないと好き勝手して碌なことにはならない」「いつも監視していないと正しい方向に導けない」など。
ですがそれはお子さんを信じていないからなのです。お子さんへの不信は親が作り出した妄想である、そこに気づいていない方が多いです。例えば、我が子が遊んでばかりいると「将来この子は苦労する」、楽しんでいる様子をみると「ここで気を引き締めないと後々大変だ」と勝手にマイナス解釈をします。そして子供が純粋に喜んでいることに水を差すそうとします。これは「先に楽しむと後で苦労する」という根拠なき呪縛(妄想)に囚われているからです。嬉しくてはしゃいでいる子に「いつまでも調子に乗ってるんじゃない」と叱咤しがちな親はまさにこのタイプです。「先に楽しむと後で苦労する」これと同義なのはタイトルの「苦しみの先には喜びが・・」なのですが、苦しんだ翌日に人は死ぬこともあります。未来のことはわからないし、苦しみの先に必ず喜びが訪れるという保証もないのに、こういう言葉に囚われて自分のみならず周りの人にまで悪影響を与えてしまうなら、それは不幸を撒き散らしているということに他なりません。
お子さんが勉強したくないなら、それは勉強することの価値や意味がわかっていないからなのです。なのにほとんどの親御さんはわからせようとしてガチガチに説教したり強要したりします。ですが、そういている間、子どもはずっと不幸だということに気づいて欲しいのです。
「先に苦労させて(勉強させる)その先の喜び(合格を勝ち取る)を・・」ではなく、そもそも勉強を苦労と考えさせないことが大事なのです。成績上位生のほとんどは(例えば東大王のタレントさんなどは)勉強を苦労とは考えていません。好きで取り組んでいるのです。こういう方は必ずこう言います、「親から勉強しろと言われたことは一度もない」と。
できる子だから親は安心して何も言わない、ではないのです。それは親が前述のように「放置」してきたからです。そして勉強の必要性・面白さに気づくまで子どもを「泳がせてきた」からです。
子どもは親の背を見て育つと言います。父親がテレワークで英語を駆使して仕事をしている様子、母親が楽しみながら読書している様子、そういうのを見ていれば子どもは「英語で仕事しているオヤジかっこいい」「読書って楽しんだ」自分もやってみよう、になるのです。「家族で大河ドラマを見ている家庭、旅行が好きな家庭で育った子は社会ができる」は半ば常識になっていますが、何も強要しなくても子どもは自分で考え自分で工夫し自分で成長しようとしていくものなのです。だって成長しないと生きていけませんから(笑)。これは本能のようなものです。
その「子どもの本能」すら信じてあげられない親は「苦しみの先には喜びが・・」みたいな幻想を頼りに教育しようとします。これで成果は出るかもしれません。ですが強要されて得た成功は付け焼き刃に過ぎず、いずれメッキは剥がれます。「中学受験がゴールでした」になるのは、まさにこういう家庭で育った子です。
柿の実を青い時に叩くのではなく色づくまで待つが如く、過干渉することなく子どもを見守るに留める。
子育てとはそういうものです。
次回は新テーマです。