自分の人生は自分で構築するもの。③
2022年7月07日
続きです。
「自分の人生をより良いものへと構築していこう」この気持ちがなければ中学受験も日々の勉強も苦痛以外の何物でもないと思います。「目標がない苦労」は誰だって避けたいからですね。一方で、自主的に学習しようとする子もいます。勉強することが苦痛ではなく、むしろ楽しいと感じるからこそ、それが継続できるのだと思いますが、こういう生徒は少数派で、勉強好きとは言えない多くの子どもにとってそれは奇異に映ります。だから、「あの子は勉強が好きなんだって、変わっているね、ガリ勉くんだね」と陰口を叩く子もいるのですが、彼らにはその「勉強が好きなガリ勉くん」が目指して目標・見えている世界が見えないのです。勉強を頑張る子は(本人が意識しているしていないに関わらず)上記のように「自分の人生を大切にしたい」と常日頃考えているお子さんなのです。
前回お話ししましたが、(恵まれていても恵まれていなくても)自分のことを大事に考えることのできる子とそうでない子はいるものです。この違いは(これも前述しましたが)「親の子育て力の差」によってそうなるのです。
私は受け持つことになった生徒に必ず質問するのが
1「お父さんお母さんがどんなお仕事をしているか知っている?」
2「お勤めしている場所知ってる?」
3「どこの出身か知っている?」
の三項目です。しかし、ほとんどの子が1.2を明確に答えられません。3すら答えられない子もいます。偶然かもしれませんが、こういう子達は成績も低迷しています。
これは最も身近にいる親に対して興味がないと明言しているようなものです。もっと言えば「自分の生活の糧はどこからもたらされているのか?」「なぜ生きていられるのか?」にも興味がないのです。こういう「生きる手段」に無関心な子が「自分の人生を大事にする、構築する」ことができるでしょうか? できないと思います。親の生き方に無関心ということは自分のそれに対しても無関心だと推察されるからです。
そもそもどうして親御さんがそういう話を家庭内でしないのかも不思議です。「家庭に仕事は持ち込まない」は、いかにも今風の家庭の在り方っぽいのですが、こういう話をすることで「生きるとはどういうことなのか?」「大人になるというのはどういうことなのか?」「世の中とはどいうものなのか?」子どもはおぼろげにでもわかってくるのです。そして「自分はこういうことをしてみたい」という意識も芽生えてくるのです。「親の後ろ姿を子に見せない親、そのような家庭はすでに立ち腐れしている」は、ある作家の言葉ですね。
さて、当塾のある豊洲近辺は商業施設も豊富で、お出かけしたり遊んだりするには不自由なく毎日が「ハレの日」みたいな街です。休日ともなると、こういう施設内では着飾った親子連れが好きなものを買い、好きなものを食べて、みたいな「盆と正月とクリスマスのような楽しい光景・楽しそうな会話」を毎週末見ることができるのですが、果たしてその「楽しそうな会話」の中に、上記のような話は織り込まれているのかな?と思うのです。
表面的には楽しいが薄っぺらい会話に終始し、白けるような真面目で真剣な話はしない家庭。また、子どもとの会話のほとんどを「叱る・貶す・急かす・注意をする」など「相手を否定する言葉の連続」にしてしまい、それを「教育」と勘違いしてしまっている家庭。
こういうのは会話でも、コミュニケーションでもないのです。
この「会話例」のように、どーでもいいことに熱心で、肝心なことを疎かにしてしまっている家庭が本当に多いのです。
なんども言いますが、家庭力とは親力、その親力と比例するのが子どもの学力・人間力なのです。
不思議に思いませんか?「うちの子の成績は低迷しているのに、なぜか他所の子の成績はいつも安定している」ことについて。不思議に思ったら「なぜそうなのか?」を真剣に考えて見るべきなのです。そうすれば「それは決して不思議なことではなく、むしろ必然であった」ことに気づくことでしょう。
「子どもの学力が・・」とお悩みの場合は、子を叱ったり、転塾したり、塾の先生を責めたりする前に、まず家庭を見直してください。それは本当に子どもにとって有益な環境になっているのかどうか?その辺りをよくよく考えて改善すべき点は改善してください。それだけでお子さんは変わります。
次回は新テーマです。