受験の成功・失敗は自分の心が決めること。④
2022年3月14日
続きです。
受験に失敗すると(特に全落ち)、「今までの努力が水泡に帰した」「費やしてきたお金が全て無駄になった」という「過去に対する後悔」がいつまで経っても頭から抜けず、それがようやく収まりかけても「この先どうなるのだろうか?」という「未来への不安」が新たに頭をもたげます。それらが変わりばんこに脳内を支配しますから、いつまで経っても前に進めず、今という貴重な時間の大半を「後悔と不安」で費やすことになってしまいます。これは勿体無いですね。
「失敗は失敗と認めた時点で失敗となる」が私の持論です。「失敗」と呼ばれるものは「自分の予想もしていなかった成功への道標」だと認識しています。このような事例は幾多もあり枚挙に遑がないのですが、その事を分かっている人と分かっていない人とでは生き方がまるで違ってきます。
さて、親御さんやお子さんの中には中学受験をまるで「ブランド品を手に入れるための手段」のように考えている方がいます。「御三家に憧れる」「両方受かった場合、偏差値55の学校より多少通学に時間がかかっでも偏差値60の学校に通う」など、受験校の偏差値を1刻みで頭の中で把握していて、校風がどうのこうの、部活の実績がどうのこうのとかではなく、偏差値がワンポイントでも高い学校を選び進学する、のが現実です。そして「すごーい」とか「優秀ですね」とか周りの評価を得たいのです。もし受験に成功したのにイマイチ喜べないのだとすれば、それは自分が進学することになったのが「ブランドとは遠いところにある学校」であるからかもしれません。これじゃ受かってもあまり嬉しくありませんね。全落ちしたわけでもないのに、受験に成功したのにもかかわらず、落ち込むのであれば、ぶっちゃけ「自慢できるブランド品を手に入れられなかった」からではないのでしょうか?
大学もそうです。(首都圏なら)Fランより大東亜帝国、大東亜帝国より日東専駒、日東専駒よりGMARCH、GMARCHより上理ICU、上理ICUより早慶、早慶より一工、一工より東大、みたいな「暗黙の序列」があり、皆(よほどの理由がない限り)上へ上へと進学したがります。「校風・環境がどうの」「教授がどうの」「ゼミの内容がどうの」「大学の研究実績がどうの」ではなく、「より良いブランドを背負いたいからそこに進学する」が本音なのです。
私は基本的に中学入試も大学入試も動機は「自慢できるようなブランド品を得たいがため」でいいと思っています。そのほうがワクワクしませんか?(笑)
中には「中学〜大学の名前ではなく、中身で勝負」という方もいます。しかし、進学先を認識されてやっと中身も見てもらえる、のが順序です。だからもし認められたいなら「高み高みを目指したい、より良い進学先を手に入れたい」と考えるのが普通なのです。そのような欲望・本音があるなら、それにに従って努力するのは健全なのです。
「〇〇学校に通えて自慢できる」「〇〇学校に通えて自信が持てるようになった」なら、それでいいと思うのです。
中学受験に成功する=ブランド品を手にする=自慢したい=気持ち良くなりたい、私はそのような本音を隠さず受験する親子が好きですね。自分に正直だからです(笑)。これを「学校をブランド品に見立てるなんていやらしい」「動機が不純だ」「学歴だけが人生ではなない」と否定する方もいるのですが、そうであればどうしてドラマや漫画で東大や御三家を扱うことが多いのでしょう? どうして一流企業に勤務されている方は有名大卒の方が多いのでしょう? どうして塾の合格実績のチラシは御三家合格者の数を大々的にアピールするのでしょう? どうして「東大王」なる題名のついたテレビ番組がウケるのでしょう? 高学歴がもてはやされる世の現実があるなら、わざわざそれに背を向け、斜に構えて「きれいごと」「建前」「負け惜しみ」で世を生きるのではなく、そのような「現実」を直視しそれが叶うような努力をしていくべきなのです。
ですが、そうそう上手くいことが少ないのも入試の現実ではあるのです。それを覚悟しておくことも必要です。
万が一うまくいかなかった場合は、ヤケにならず「今は雌伏の期間を過ごしている」と思ってください。与えられた場所でヤケにならず自分のベストを尽くす、を淡々と実行すれば、冒頭にも記しましたが思わぬ幸運が思わぬ方向から訪れます。
それを信じてください。
次回に続きます。