教えてもらい過ぎの弊害。②
2021年5月22日
続きです。
「自分で考えることのできない子」が増えている原因は親・教師を含めた「大人の過干渉」です。なぜ干渉するかと申しますと「子どもの失敗を未然に防ぐため」で、それは一見「子どものためを思って・・」のように見えますが、実のところは「自分が大事だから・・」という「大人の都合」によるものです。例えば「早く早く」と子を急かすのは、親なら「急がせないと自分が不利な状況になるから」、教師なら「クラス運営の支障・そこから生じる外部からのクレームを避けたいから」なのです。つまり自分可愛さで子どもに干渉するのです。子どもは、といえば、いちいち抗うことも面倒で、そうしたところで現状が覆るわけでもないので「逆らわないほうが無難」とばかり羊の如く従順に親や教師に従うのです。「大人の都合」が子どもの考える機会を奪っているのですね。その結果「何かとうるさい親」を持つ生徒の思考停止率は高くなります。これでは思考力が求められる中学入試で成功することはありません。過干渉が子どもの将来を台無しにしていくことに危機意識を持たれたほうがいいですね。(毎度申し上げますが、今のお子さんにしたのは良きにつけ悪しきにつけ、結局は親御さんに原点があるのです。)
なぜ危機なのかと申しますと、考える習慣が欠如すると自分の人生なのに自分の人生として生きられなくなるからです。例を挙げると戦時中そうでしたが、自分で物事を考える習慣のない人々→マスコミ・大本営など上からの報道を鵜呑みにする→みんなもそうするからと不承不承ながらも従順に従う→自警団化した大衆がその方向に従わない人を非国民として制裁する→間違った方向に誘導され奈落の底に突き落とされやっと真実がわかる→そして反省はするが誰も責任を取らず、喉元過ぎれば・・ですぐ忘れる、というパターンを戦後80年近く経つのに、相変わらずこのコロナ禍においても懲りず無反省に同じことを繰り返しているからです。これを国民性、と片付けて諦めるのではなく、未来に向け諸々変えていく必要があるのではないでしょうか? そのための第一歩としてまず自分で考える、そして自分の生き方は自分で決めていくという決意が大事。しかし、それができるできないは子どもに関わる大人次第なのです。
「従順」は楽なのです。例えば「最近の新入社員は指示待ちが多い」と嘆く上司がいたとして、それならばと指示を待たずに自分の意思で行動したらしたらで「新入社員なのだから身の程をわきまえろ」と同じ上司から叱咤されるなら、誰だって叱られて自分の立場を不利にしたくありませんから、こういう矛盾を平気で言う上司に対しては「とりあえず従っておく」のが普通です。面従腹背と言われようがそうするのは、自分に責任が及ぶことを回避できるだけでなく、「素直で謙虚な人」と好印象も持たれ何かと都合が良いからです。「声の大きい人への忖度・追従笑い・なあなあで済ませる・責任から遠い立場に身を置くよう振る舞う」の繰り返しは、日々を無難に過ごすための処世術であり、自分に火の粉が飛ばないようにする防衛策でもあるのですが、しかしこのような「自分から思考停止になる新入社員、暗に思考停止になることを求める上司」のセットが会社の一組織のみならず役所や政治にまで広がれば、その国の将来は薔薇色というわけにはいかなくなるのではないでしょうか。日本人は「規律正しい真面目な国民」と評されているようですが、それが「自分が批判されないようにするための盲目的な従順さ」であれば、何の価値もないのです。そしてその「思考停止状態での盲目的な従順さ」で溜まったフラストレーションの捌け口がネット世界などでの弱者攻撃や「何たら警察」であるなら、それは価値がないどころか害悪なのです。
教育には「将来の国の基盤を作るため」という要素もあるのですが、明治以来何年も変わらないこのような「教育」に改革が必要なら、まずは大げさに考える前に「とりあえず子どもに自分で考えさせる機会を与える」から始めてみてもいいと思います。そのためには大人自身が変わらなければいけません。従来「これで良い、これが常識」と盲目的に信じてきた価値観を今一度見直し、子に対する接し方を変えていくことが「全ての教育のはじめの一歩」だと思います。