教えてもらい過ぎの弊害。
2021年5月15日
新テーマです。
例えば事業を興すにしても「時期尚早だから」「経験を積んでいないから」「時期が悪いから」など失敗する理由を積み重ね、なかなか行動に移せない人がいます。失敗したくないから慎重になる。これは理解できるのですが、結局こういう人は先駆できないので、ファーストペンギンの後塵を拝するか、もしくは「無難ではあったが結局何も成し遂げられなかった人生」で終わることが多いです。そして後々「〇〇しておけば良かった」と悔いることにはなりましょうが、一度しかない人生を「ただただ大事に生き長らえること」を重視した結果がそれであるなら、そうなったことを甘受しなくてはならないのでしょうが、「たとえ短くても思い通りに生きることが大事」と考える人はそういう方々とは違った視点で人生を見ているような気がします。私はどちらかと言えば後者寄りの考えなのですが、「失敗してもそれを認めたときが本当の失敗、認めなければそれは成功の糧となる」という姿勢で生きていますので、あまりストレスを感じることなく日々過ごしています。日頃より「自分の人生は自分で決定する」を意識しているからですね。ですから「他者の目」「世間の空気」「マスメディアの情報」を自分の生き方の軸にすることはありません。
閑話休題。
なぜこういう話をするかと申しますと、ここ最近(本当は前々からなのでしょうが)「自分で考えない子」=「教わることしかしない子」が増えているような気がするからです。そしてこれをあまり好ましくない傾向だ、と感じるからです。なぜ好ましくないか?
「自分の人生は自分で決める」のベースは「自分で物事を判断し考え行動する」です。「考えること」「それに従った行動をすること」の頻度と「人生の充実度・幸福度」とは比例関係にあるように思うのですが、しかし、その習慣が年少者である小学生時代から根付いていないとするなら、今後は「他者の言いなり」=「他者の思考に合わせて自分の生き方を決める」という主体性の無い人生のままで終わってしまうのではないかと危惧するからです。
受験の話に置き換えますと、例えば算数の授業で1分も考えることなく「わからないから教えてください」と解説を求める子がいます。また、こういう子はわからないなら調べたり、解説を見たり、スマホをいじったりすれば即解決できるような暗記物、例えば「日露戦争はいつ起こったのですか?」「桃は何科の植物ですか?」でさえ質問します。そういうとき少しムッとしますね(笑)。質問に答えるのが面倒だからではなく、なぜ自分から動いて解決しようとしないのか、その消極的且つ行動力のなさに苛立ちを感じるからです。
このような「自分では動かない、けど何でも質問できる僕は学習に積極的」と勘違いしている生徒さんのほとんどは失敗します。「自分で積極的に考え行動する、しかしどうしても無理だから質問する」ならいいのです。
塾に行くのは「わからないことを教わるため」です。しかし、それより大事なのは「わからないことは教わる前に、前もって自分で考え行動しておく」です。「予習重視の塾」はそれを望んでいるのです。それでもどうしても無理な場合に「教わる」ならいいのですが、「中学受験の勉強=塾に行って教わってくること」の思考のままだと伸びません。「塾に毎日通っているのに伸びない」というのは教わり過ぎた結果、自分で考えることを放棄しても何とかなる、と勘違いするからです。そういう自分で考えない、頭を使わない生徒は難関校のオリジナル問題を見た瞬間「これは塾で習っていないから無理」と諦める傾向が強いのですが、それでは受かりません。塾で真面目に授業を聞いていれば得点できる「型の決まった塾主催の模試の問題」と、本当の考える力が問われる「入試問題」は似て非なるものだということをわかっていない生徒(親御さん)は、これに限らず諸々肝心なところで対処を誤ることが多いです。「考えない子」「それを正そうとしない親」のセットのままですと合格は危ういです。一方、日頃から自分で考えることを習慣化している生徒は設問・グラフ・図・蓄えてきた知識からヒントを探り出し、自力で解決しよう努めます。上位校はこういう「脳から汗を流すことを厭わない積極的な生徒」が欲しいのです。そして、そういうことのできる子が受かっていくのです。
「自分で考えることのできない子」が増えている理由は何なのか?
その辺りを次回解説してまいります。