考えることを厭わない子に育てるのが大人の責務。
2020年3月30日
※ コロナウイルスの猛威に伴う感染防止のため、自宅待機を強いられているお子様も多いと思います。その環境下で「どうすればいいのか?」とお悩みの方はご相談ください。四六時中ゲームで暇をつぶししていている以外の時間の使い方があるのではないでしょうか?
中学入試に向けた勉強は、もちろん志望校合格のためのものですが、一方で頭を鍛えるため、という考え方もあります。いや長期的に見れば、そちらの方が重要かもしれません。
人生は選択の連続です。いかに正しく判断し、いかに正しい道を選べるかどうかで成功不成功が決まると言っても過言ではありません。そうならず仮に誤った道に進んでしまったとしても、すぐ軌道修正できるか、もしくはその道を歩む中で別次元の光明を見出せるか、例えいかなる状況であっても成功を掴むための臨機応変な選択は「何となく」でするものはなく、熟慮に熟慮を重ねた末に捻り出されたものでなければ、ただの行き当たりばったり・根拠のない思いつきでしかないのです。
しかし、この熟慮というのは日頃からそうする習慣がなければ肝心な時に発揮できるものではありません。また、精度が高いものにはならないのです。
考えることの嫌いな子が多いです。すぐ答えが出ないと癇癪を起こすような忍耐力・集中力に欠ける子・面倒くさがりやも多いです。「早く早く」と追い立てる親御さんにも問題があります。考える時間の長い子を「のろま」「鈍い」と評する大人もいます。しかし、それは間違っています
考える時間が長いのは、答えに行き着く様々な可能性の中からベストをチョイスをしようと究極の選択を試みているからです。将棋の長考と同じでそれ自体を否定することは、お子さんに「思いつきで生きろ」「刹那的な人生を過ごせ」と推奨するようなものです。これでは考える子は育ちません。
この世界には何が答えなのかわからないものが多く、混沌とした中で一人一人が自分なりの価値観・人生観・哲学を持ち、それに沿った「後悔しない自分だけの人生」を過ごして行くために「考える習慣」が不可欠なのです。「考え抜いた末に得られた自分らしい正直な過ごし方をする」が本当の「充実した人生」なのです。
「みんながそうするから」とか「ネットでそう言っているから」とか、その情報に違和感を抱きつつも「批判されたくないから」「多数派の方が正しいかもしれないから」と同調圧力に屈し、簡単に自分の信念を曲げ、不承不承ながら多数派に従い、その挙句、それが誤りであることに気づき、皆と同じく崖から落ちるような羽目になったとき、落ちながら悔やんでも「時すでに遅し」なのです。戦時中の「右向け右の悲劇」を性懲りも無く繰り返すのが日本人の特性なら、そこから抜け出さなければいけないのです。自分の頭で考え、自分が納得できる選択をしていく以外、充実した人生は送れないのです。
確かに算数そのものを社会で使う機会はあまりありませんが、その過程で得た「活性化した脳」「思考の多様性」を転用・応用し最大限に活用していけば、何もせずぼっと過ごしてきた思考停止の人よりははるかに「自分らしい生き方」ができると思うのです。
目先の「どこどこ中学に行く」は大事かもしれませんが、長い人生の中でそれは微々たる価値でしかないかもしれません。それよりも、これを機に年少時から生涯に渡って思考する習慣を身につけられることの方がはるかに尊いのではないでしょうか?
生きることは考えることそのもの。
考えることは生きることそのもの。
これを心にお留め置きください。
次回に続きます。