努力を出し惜しむ生徒は受からないことになっています。
2019年10月09日
続きです。
不思議だと思いませんか?
自分のための、他ならぬ自身の人生を優位に展開させるための受験なのに、そういうビックチャンスにもかかわらず、合格に向けた努力を出し惜しむ生徒がいるということが。
ですが、「受験したいし合格したい、だけど勉強したくない」という生徒の言い分を聞き取って行く中で、「なるほどな」と思えるとこともあります。
それは「頑張って勉強しても落ちたら、今までの努力が虚しく感じてしまう。そんなことになるくらいだったら、その間遊んでいた方余程が良かったのでは・・と後悔するかもしれない。だから、落ちても傷つかないよう目一杯頑張らないようにしている。だけど、そんなに頑張らなくても受かるんだったらそれはそれでラッキー」。この文言通りではありませんが、そういう主旨のことを彼らは異口同音に言っています。つまり「最低限の努力で受かればOK、たとえ落ちたとしてもそんなに頑張ってこなかったのだから、と納得できる」という考えなのです。
計算しているのですね。一見合理的な発想かもしれません。しかし浅はかで小賢しいのも事実。ゆえにそういう子は残念ながら受かりません。なぜなら、努力を出し惜しみする生徒がいる一方で、信じられないくらい頑張る子がいるからです。出し惜しみする子はそこに気づいていません。そして「美味しいところ」は全て後者が掻っ攫って行くことになるのです。
「全力尽くしても落ちたら・・」などと計算しない子が結局強いのです。目の前にある「すべきこと」に対し、その都度その都度全力を尽くせる「迷わない愚直な子」ですね。そういう子が一番強いのです。
入試は頑張ったからといって必ず受かるというものではありません、ですが、頑張らなかった子は確実に落ちる。これは本当です。
「頑張らなかったから受からなかった、それで納得です」だと傷つかないかもしれません。ですが「受かるチャンス」を自ら捨ててしまったことも事実です。
傷つかないことを優先するあまりチャレンジしない子、完全燃焼できない子は何も得られません。こういうことが習い性になっている人は大人になっても大きな失敗はしないかもしれませんが「何にもなれない人」「現状維持だけが大事な人」「底辺を底辺だと気づかないままの人」で終わってしまうのです。わたしはそういう生き方自体が「失敗」だと思っています。
完全燃焼した先にあるのは「成功」だけではありません。たとえ「失敗」しても、ただただ順風満帆なだけでは見えなかった「それ以上に価値のある何か」つまり「自分でも気づかなかった成功へのベストの方向性」を知り、「当初見込んでいた成功以上に価値のある別の成功」をつかむことができるのです。
成功者は「人生とはそういうもの」だと知っています。ですから、あえて苦難の道を選び、そこで躊躇なく一生懸命生きる生き方を選択するのです。こういうのが本当に「賢い」というのです。
皆さんもそういう生き方をしてみてはいかがでしょう?
中学受験はそれができる最初のチャンスなのです。
次回に続きます。