宿題についての考え。②
2018年7月03日
※ 「惜敗」という言葉があります。スポーツの世界では負けたのに「よく頑張った」「感動をありがとう」と賛辞が贈られることがありますが、中学受験の世界では入試に落ちた生徒に対しそんな甘い言葉を投げかけたりはしません。失敗すれば「結果に至るまでの全てが間違いだった」と評されるからです。たとえ1点差でも「受かれば官軍、落ちれば・・」なのが中学受験の現実です。そこをシビアに考え続けた生徒が勝利を掴みます。
続きです。「宿題をたくさん出してください」と要望する親御さんの言葉を聞いただけで気持ちが萎える講師は私だけでしょうか?受験する・したいを希望するのは当事者であるお子さんですよね。自分が望む受験ならば、夢の実現に向け真っ先に自主的に動くのが当事者として当たり前の行動であるはず、なのに「宿題を出してください」という要望は、言い換えれば「合格を望んでいるはずのうちの子は強制されないと勉強しない」と申告しているようなものだからです。それを聞いた講師が??になるのは当然ではないでしょうか?
願いを叶えたいのに、その願いを叶えることをしない、え?。これは「うちの子は矛盾したことを平気でやるんですよ」と宣言しているようなものです。こういう矛盾を疑問なく続けてきた子供の学力は当然低い、自分から学習する意欲・気力などない。このような生徒を受け持つことになってしまったら、この先どうなることやら・・そう考えるだけで、講師は未来展望を描く気持ちさえなくなってしまうのです。まあ、こういう生徒でも何とか形にしていくのが私の仕事なのですが・・。
宿題というのは子どもを縛りつけたり、苦行を強いたりする道具ではありません、ましてや罰ゲームではありません、と言いますか、子どもを縛りつけ奴隷のように強要させる受験って何なんでしょう?そんなものに何の意味・価値があるのでしょう?受験成功は大事ですが、同時にそこに人間的な成長を伴っていなければ意味がありません。「人間的な成長」それは自分の力で自分の気力で容易に手に入らない果実を得ることです。それがなく「無事受かりましたが、これは親に言われるがままイヤイヤ宿題をした結果です、自分はやる気ゼロでしたが」に何の意味があるのでしょう?こういう子はたとえ一流中学→一流大学へ進んだとしても、自慢できるのは学歴だけで、中身はスカスカ、みたいな大人になっていきます。ですので親御さんの「たくさん宿題を出してください」の一言は、将来に渡り自分から学ぶことを怠り、成長しないまま年だけ取った「役に立たない大人」を作る遠因になりかねないということに気付いていただきたいのです。
そもそも「強制されないと勉強しない子」が受験をしてはいけません。どうせ受験しても落ちますし、自分の意に反することをさせられる子は不幸だからです。もし親御さんが「自分のために受験してほしい」なら、「あなたのために」などと嘘・綺麗事を言わず「親のために」と正直に話し、頼んでみてください。「親のために」という動機で受験することは悪いことではありません。ですが、受かったら「親の要求を背負い込み苦労したお子さん」にはたっぷり「ご褒美」をあげてくださいね(笑)。
一方「どうしても受験で成功したい」と心から願う生徒は自分から動いてください。言行一致こそが大事なのです。
「自分では精一杯動いてみた。だけど、まだまだ足りない何かがあるに違いない。その自分でも気づかない「足りない何か」が何なのか?それを知るために、経験豊富な講師にアドバイスを願おう」、自分でできることは全てやった、そのうえで求めるアドバイスこそが「宿題」なのです。
その宿題の定義を忘れ、やれ子どもがサボるからとか、やれ宿題を出さないと親からクレームが来るからとか、親も塾もその本質を忘れてしまっていることが問題なのです。
ですから当塾は子どもの自主性を削ぐような「本質から外れた宿題」は出しません。「意味のあるアドバイスとしての宿題」ならドンドンお出しいたします。
次回に続きます。