国語のお話。③
2017年9月04日
続きです。
今年入塾した生徒の中に国語の偏差値を40→63と飛躍的に伸ばした子がいます。直近の8月の模試でも62でしたので、ここ最近60超えが当たり前になりつつあるのですが、何も頭が急に良くなったわけではありません。「国語の正体」がわかったからです。それさえわかれば、その後も安定した点数を稼ぎ続けることができます。逆に何時まで経ってもできない子はこの「国語の正体」を知ろうとしないばかりか、(できないのに)いつまでも自己流に拘り続ける子です。「国語の正体」については授業時に幾度となく繰り返しお話ししています。それを聞くか聞かないかの差なんですね。国語は「講師の言うことに素直に耳を傾け、その通りに実行できる生徒」から伸びていきます。国語に限らず他の科目でも「素直な子」は「能力のある子」を超えて成長していきます。
ところで、「国語の正体」とは何でしょう?その前に「国語のできる生徒」にどのようなイメージをお持ちですか?昼休みにも図書館に入りびたり、読書感想文を書かせれば表現豊かに自分の感情を的確に文章化できるような・・という感じでしょうか?また、読書感想文では読み手を感動させるような「大人心を巧みにくすぐる術を知っているテクニシャン」が入選したりするものですが、そういうことをさらっとできてしまう子も「国語のできる子」と評されることがあります。
さて、小学校の授業は国語の時間が「感想発表会」化することがあります。例えば「桃太郎」を授業で扱った場合、悪い鬼を退治しに行く桃太郎の正当性を主張する生徒がいる一方、いわれなき理由で退治される鬼に同情する声も出たり、鬼にだって鬼ならではの生活があるんだ、と息巻く声もあったり、その度に先生は誰かの発言を真っ向から否定したり遮ったりすることなく、「そうだね」「そういう見方もあるね」と皆の考えを肯定する立場を取ります。つまり皆が正解者。さまざまな意見が出てそれで盛り上がってこそ国語の授業・・と、先生も生徒もそれで満足してしまっていることが多い。
このように読書感想文にしても感想発表会にしても答えは一つとは限らない。人の想いは十人十色なので、それでもOKなのです。「学校の国語」はそれでよいことになっています。むしろ意見の多様性に重きを置く傾向が強い。しかし、全てが「正解」となってしまうような科目が、1点差で合否が決まる厳正であるべき中学入試の試験科目に採用されていいものなのか?不思議だな?という疑問を持つなら、国語は算数同様「答えは一つしかない科目なのではないか?」と考えるべきなのです。実際そうなのですから。しかし未だに「国語の答えは一つではないから・・」などと言っている人もいますね。そんな方は永遠に「受験国語が何たるものか?」がわからず終わってしまいます。
さて、「国語の正体」の一つ目ですが、それは入試の国語は学校の国語と対極の位置にある、ということです。ですから「学校での国語の成績がが良い子=入試の国語で点が取れる子」とは限らない。国語の答えは一つ、だとしたらその一つの答えを得るにはどうすべきなのか?を考えられる子が入試の国語で高得点を挙げられるのです。言葉は悪いのですが「学校の国語」に入り込めば込むほど入試の国語ができなくなる。同じ国語であっても、学校のそれと受験科目としてのそれとでは「学習する目的」が違うのかもしれません。
豊かな感情・情緒・多様な物の見方・想像力。これらに頼り解答を得ようとする発想が国語の足を引っ張ります。国語は主観抜きで読み考えなければ正答を得られないのです。読解の際、湧き上がってくるこれら感情をどれだけ抑え込めるか、その自制心と冷静な対処が国語の成績浮上の鍵となります。
次回に続きます。