塾の活用法。➄
2017年6月02日
続きです。
受験は「シンプル」です。各教科でわからないことが無くなれば受かるのです。全ての問題が解け全てが得点化されれば受かるのです。受験生はこの理想を追求し具現化すべく日々努力すればいいだけなのです。やれカリスマ塾だ、やれカリスマ講師だなど、青い鳥を外に求めるのはなく、自分の中にある青い鳥を自分で発掘していく。それができる生徒は塾・講師に関係なく受かりますし、できない生徒はどんなに「スーパー塾・スーパー講師」に頼っても落ちることになります。頑張る子はどんな環境・状況でも勝手に受かるのです。
わからないことを無くすには、膨大な学習量それに伴う時間が必要です。その時間は家庭でしか確保できません。ですから学習は必然的に家庭で行うことがメインになります。「うちの子は家で勉強しないから塾に」という親御さん、「うちの塾は面倒見がいいからご家庭で勉強する必要はありませんよ」という塾。これでは受かりません。本気で受験を成功させたいと願う親の最も大切な役割は「子どもに家庭学習を習慣づけさせること」です。親が何の努力もせず、工夫もせず、これができないようなら受験生の親としては失格です。それ以前に子どもが(自分が受験する当事者なのにもかかわらず)自ら家庭学習を拒むようでは受験自体成り立ちません。そういう生徒さんは公立中にご進学ください。受験で失敗するのは「頭が悪い」「運がない」「遺伝」が原因ではありません。単に「勉強していないから」なのです。勉強しないことが習慣化されている生徒が「高校受験でリベンジ」というのは夢物語です。事実、私は高校受験でリベンジを果たした子など見たことがありません。一方で、受かるのは誰よりも勉強している子、100問解けても「101問目が入試に出たらどうしよう?」と考えられる子です。これまたシンプルな話です。こういう生徒は将来も必然的に「上位層」として、逆に勉強しない子・無気力な子・努力を軽視する子はどのような環境においても「下位層」として生きることになります。勉強ができないから下位層になる、のではないのです。勉強することが子どもの義務・果たすべき責任なのに、その最低限のことができない子は、今後何に対しても無気力である可能性が高いからです。「勉強ができなくてもスポーツ選手になって活躍すればいいではないか?」「中卒でも社長になった人はいるよ」、はい、確かにそうです。しかし、そういう人は話題になりますよね。話題になるということはそれだけ稀だから、だから話題になるのです。こういうレアケースを自分の都合の良いように拡大解釈し、楽観的に生きようとするのは、特出する才能が認められない一般人が計画的に生きていくうえでハイリスクなのです。世間は母親ではありません。弱者に救い手を差し伸べたり、優しい言葉を掛けたり、構ってくれたりすることはないのです。「下位層」はひたすら「上位層」の養分として生きることになる。たった一度の人生、これは皆同じ。なのに一方は養分を吸い上げ人生を謳歌し、一方は吸い上げられ誰からも相手にされない人生を悲観し・・悲しいことですがこれが世の中というものであり、現実なのです。しかし、頑張った者が報われる社会。私はこれこそが健全、且つ真の意味で平等な社会ではないかと思うのです。江戸時代のように能力もないのに家柄で身分が決まる、そんな理不尽・不平等社会から見れば、(基本的に)誰にでも平等にチャンスが与えられている今の世は本当に恵まれています。にもかかわらず、そのチャンスを生かすことを怠っておきながら、自ら進んで弱者の道を選んでおきながら、社会や政治に不平不満を抱きつつ生きるのであれば、それは本当にみっともない話だと思います。
以上が今までお話をしてきた内容の要約です。
さて、「塾の役割」ですが、それはただ一点。「生徒が頑張って家庭学習しました、しかし、そこでどうしても残ってしまったわからない問題を解決させる」これしかないのです。塾は勉強させるところでも、テストを受けさせるところでも、生徒を叱るところでもありません。シンプルに「生徒の疑問を解決させる場」この一点しかないのです。疑問点を無くしてもらう→学力の向上に貢献してもらう→ひいては合格させてもらう、という実利実益の対価として親は塾に月謝を払う・塾は成功報酬としてそれを受け取る、というのが筋というものなのです。バナナ購入という実利実益がないのに、消費者が果物屋にお金を払うことがないのと同じですね。もちろん果物屋の方もお金を受け取ることはありません。
しかし、塾が本当にその役割を果たしているのか?その認識ができているのか?は疑問ですね。
次回はそのあたりのお話したいと思います。