中学受験を考える。⑦
2017年5月02日
続きです。
中学受験を諸事情によりリタイアしたとき、残されるのは「地元の公立中に通う」という道です。諸事情、と書きましたが簡単に言えば「途中で勉強が嫌になった」ですね。受験するかしないかを親子で話し合い、そして双方バトルの末、両者がヘトヘトになり受験を辞めるというパターンですね。こういうとき子どもは言います「中学に入ったら絶対リベンジする」と。で、その通りになった試しはありません。朱に交われば何とか、と言いますが、環境が人を作るのでしょうね、しばらく経てばその他大勢に埋没し、その頃には当初の気概なんかとっくに無くしています。本当にリベンジを果たしたいのであれば、前回述べたように「都立7校」の受験、もしくは、私立高校受験にチャレンジし受かるしかないのですが、これまた前回述べたように中学受験の比ではないくらい過酷な学習スケジュールが待っています。そのとき子どもは「なぜあのとき踏ん張って中学受験を全うしなかったのか?」と後悔するのです、そして「どうして親や講師はもう少し強く僕を説得してくれなかったのか?」と恨み節を口にするのです。中学受験を目指すのであれば最後まできちんと学習して受かる、その道しかないことを覚悟しなければ、この挫折が「人生根無し草」の第一歩になりかねないのです。途中での諦めがきっかけで、現在不本意な生き方になっている人は、過去に戻り人生のやり直しを夢見ますが、覆水盆に返らずなんですね。そうならないよう人生経験の長い親が物事を逆算して考えることの大切さを、受験を機にお子さんに指導すべきなのですが、それができる親とできない親に分かれます。受験を全うできるかできないかは親の力量次第なのです。「中学受験は親の受験」と言われるのはそういう所以なんですね。
さて、「中学受験がなぜ必要なのか?」という問いには、私は「きれいな人生履歴を作るため」と答えたいです。目の前にいる人がどんなにおかしな風体であっても、その人の例えば「灘中高→ストレートで東大医学部卒」という履歴を見れば、「おーすごいな」「頑張って努力してきた人なんだな」「頭のいい人なんだな」と、たとえ風体がおかしくても「天才ゆえに凡人には理解しがたい身なりをしてしまうのだな」と変に納得し肯定し受け入れてしまうから不思議なものです(笑)。
「きれいな履歴」が全てとは言いません。「エリートでなければ生きる価値はないのか?」そんなことを言うつもりもありません。しかし、「きれいな履歴」に越したことがないのは、現実社会で生きていくうえで事実なのです。要はリスクヘッジとしての「きれいな履歴」なのです。「履歴がきれい過ぎて困った」という人はいません。中学受験を目指すのも本音では「きれいな履歴」を作る第一歩を築きたいからではないのでしょうか?
私が好きな漫画に「世の中は母親ではない」というセリフがあります。どんな子であっても親は子ども可愛さから手取り足取り構いますが、世間は親のように落伍者に手を差し伸べるようなことはしません。それどころか弱者には容赦なく・・です。自分の身は自分で守る、それには「きれいな履歴」が葵の家紋の如く有効なのです。
中学受験で成功することはもちろん大切ですが、挫折することなく本分を全うすることの意義を小学生時代に知ることができる方が数倍価値があります。この「全うする力」を養うきっかけとなるのが中学受験であり、その成功が「きれいな履歴」の第一歩となるのであれば、チャレンジしない訳にはいかないのです。
機会に恵まれたならば、是非このチャンスを生かしてください。
次回に続きます。