中学受験を考える。➄
2017年4月20日
続きです。
前回述べました「中学受験は将来のリスクヘッジとして行う」について説明します。
「学歴不要論」みたいなタイトルのついた本が書店に出回ることがあります。こういう類のものは人気がありよく売れます。「俺が不本意な人生を送っているのは学歴社会のせいだ」「学歴が問われない社会であってほしい」という人の共感を呼ぶからなのでしょうか?そしてそれらの多くは「勉強ばかりの人は頭でっかちでダメ、社会に出たら通用しない。大事なのは人柄だよ」みたいな論調で書かれています。何を根拠にそう語るのかはわかりませんが、どうも「勉強のできる人=コミュニケション能力や人間性に欠ける人」にしたいようですね。誰々さんは東大卒業ですよ、と紹介すると、聞いてもいないのに「いくら東大出てても人間性が良くないとね」と即座に切り返す方も「東大生=たとえ優秀であっても人格的に問題がある」としておきたいのでしょう。
「君に勉強以外の大事なことを教えてやる、それは友情・・」「たとえ勉強ができたとしても人として人間として・・」などと説教する学園ドラマの「熱血先生」もその類。「学歴が高い人=欠陥人間」なのでしょうか?日本人は「さあ、ここで感動してくださいみたいなお約束事」が好きなのでしょう。例えば「頭のいい奴は裏でコソコソ悪いことをしている、一方、不良は本当は純粋で心優しい」みたいなのが。これは「できる人へのやっかみ」なのでしょうか?「優秀な人は人間的魅力に欠けていてほしい」、そうであるなら少しは溜飲が下がる、というものでしょうか?(笑)。しかし、だからと言って子どもに不良になることを勧める親など無く、学園ドラマに感動した親であっても、子どもには高学歴を目指させるわけです。この矛盾はいったい何なんでしょう?(笑)。
私の知る限り「勉強のできる子」は皆努力家です。甲子園を目指す高校野球の選手の努力は「血と涙と汗の結晶」のようにもてはやされますが、勉強で努力してる子にそういう賛辞を贈ることはないですね。何か不公平ですね。勉強は「脳のスポーツ」です。そこでの努力を惜しまない子に「人間性が云々」と評するのは失礼ではないでしょうか?逆に言えば「思考力」「集中力」「体力」「忍耐力」など「人間力を形成する重要な力」が備わって初めて学力は身につくのですから、むしろ「勉強で頑張っている子は人並み以上の人間力が備わっている」と正当な評価を与えるべきなのです。少なくとも何も知らずに批判を繰り返している人よりは人間性という点では上のはずです。
さて、そこをきちんと理解しているのは、同じように「学力・学歴のある人」です。学歴のある人は「士業」と言われる専門職に就くか、もしくは大企業での重要な役職に就いていることが多い。 例えば人事部で新入社員を採用する方は基本的に「履歴書頼り」で第一次審査をするのですが、そこでの取捨選択の判断基準は「学歴がどうか?」です。いくら面接で「私の長所は人柄が良いことです」とアピールしたところで、その場でマニュアル通りの応答をし、取り繕っていることくらいは人事は見抜いています。そんな当てにならないものを参考にするより、数多い入社希望者の中から瞬時に人間力・総合力を判断するには「学歴」を見るのが一番有効なのです。そこには「地頭」だけでなく、前述のような努力の過程=人間力までもが、嘘偽りのない形で凝縮され詰っているからです。ですから、昔から言われている「学歴不要論」がその通りにならないのはこのような理由があるからです。
学歴は自分を正当に評価してもらうための手形みたいなものです。軽視するものではありません。
次回も「中学受験=リスクヘッジ」の話を進めてまいります。