子どもの育て方。➅
2016年10月11日
続きです。
今回のテーマをまとめますと、中学受験の成功不成功は、幼少期から継続してきた親子関係の密度・信頼度の深浅に起因するということです。
その密度・信頼度を高めるために子どもには「生まれてきてよかった」「この親の下で育てられて幸せだ」という体験を豊富に与えることが大切だというお話もしました。忍耐・我慢を強いる前に、与えられるものは可能な限り与える。なぜなら子どもは自分の意志で生まれたわけではなく、親の都合で産んだのだから、「育てる義務」「幸福にする義務」は親側にあるわけですから、むしろ過保護気味に育てるくらいがちょうどいいということになります。
また、子育ては父親母親共に関わらなければいけない。特に父親の育児放棄は、自ら積極的に子どもと信頼関係を築こうとしない行為と同義ですので、もしそれを改めないのであれば中学受験において「何を言っても説得力のない父親」になってしまいます。そのようなお話もしてまいりました。
さて、私はこの世の中において無条件に「良い」「悪い」と判断されている事柄に、一定の疑いを持ち、自分なりに解釈検証してみる習性があるのですが、その例として「嘘をつく」を考えてみたいと思います。
私たちは嘘をつくことはよくない、そのように幼児期から教えられてきました。うそつきは泥棒の始まりとも言います。つまり、嘘をつくことは無条件で悪い、ということが物心ついた時から染みついています。例えばテストで悪い点を取ってしまった、親に見せられない。だからそれを破り捨て、「テストは無かったよ」などと嘘をついてしまう。しかし、その後何かしらの理由でそれがばれた後、母親は「何で嘘ついたの!」と、烈火のごとく怒るわけでです。「お母さんは情けない」「嘘つきに育てた覚えはありません」など次々と責める言葉でまくしたてます。針のムシロで聞いていた子どもも最後には耐えきれず大泣きして終わる、よくあるシーンだと思います。
しかし私は、「子どもが嘘をついた、それを知り条件反射的に叱る母親」は受験生の親として未熟だと思います。私なら叱る以前に「なぜ、嘘をつかなければならなかったのだろう?」を先に考えてしまいます。「テストの点が悪いと親は怒るだろうな、自分も悲しい気持ちになるだろうな」「親が悲しむだろうな、失望させたくないな」と思うから嘘をついたのだろうな、と考えてしまいます。「相手を貶めるためにつく嘘」、それは許されません。しかし「自己防御のため」「親を想う気持ちから」の嘘であるなら、それらは一概に責められるものではないと思うのです。
むしろ、事実をありのままに伝えられない子にしたのは、自分(親)の落ち度、つまり、お互いに忌憚なく事実を言い合える親子の信頼関係を築けてこなかった親に責任があると考えるべきなのです。
子どもだって嘘なんかつきたくない。悲しい思いをしながら嘘をつく、なんてことがない親子関係。本当の信頼関係とはそういうものではないでしょうか?
次回に続きます。