子どもの育て方。②
2016年10月03日
続きです。
中学受験するしないはともかく、子育ては計画的に行うべきものだと思っています。そして出産の段階からそれは計画されたものでなければいけないというのが私の考えです 人の寿命は80年です。生まれた子もそのくらいは生きるだろうと仮定して、その長きにわたりさまざまな喜怒哀楽を体験するでしょう。楽しいことばかりならいいでしょう、しかし、人生が「苦痛の歴史そのもの」になることもあります。「こんなことなら生まれてこなければよかった」と、自分の境遇を呪う人もいるでしょう。
このように嘆く人に他者は厳しいものです。「人生は自己責任」「世の中には生きたくても生きられない人が大勢いるのに甘ったれるな」「悪循環から逃れられないのは自分自身の努力が足りないからだ」と。
確かにそうかもしれません。しかし、こういう不遇な方の大半は幼少期からすでに躓いていることが多い。この幼少期というのは自分の力ではどうにも抗えないものです。例えば不幸にして両親の不仲・家庭内暴力・経済的困窮などが原因の閉塞的で重苦しい環境で育った子は、外に自分の居場所を求てしまいます。親から蔑ろにされた自己肯定感が低い子は、より立場の弱いものをいじめることでしか自己有能感を高められない、不良になることでしか自分の存在価値をアピールできない、そんな生き方をしてしまう。その結果、世間からはつまはじきにされ、より厳しい境遇に追いやられて「負の迷宮」から抜け出せなくなってしまう。しかし周囲は「それでも立派に生きている人はいる」と「弱者」責めるのですが、「中卒で年商~億円の社長」「元不良の~先生」が話題になるのは、そういう環境を脱し「立派に生きている人」は稀だからです。大半の人はそれほど強くはないし、また、厳しい意見をいう人の大半は、そういう悲しい幼少期とは無縁の「恵まれた環境」で生きてきた人、壮絶で悲惨な環境を想像できない人ではないでしょうか?
「親の恩に報いる」「親孝行」「親の介護に全身全霊をかける」は無条件で賛美される言葉ですが、仮に子どもが自分の意志で生まれ、未熟な自分の成長の手助けを親にしてもらった御礼、生きる喜びを体験させてもらった御礼として、ならわかります。しかし、子どもは自分の意志で生まれたわけではない。親の意志で産んだのです。よくドラマなどで反抗期の子が親に向かって「産んでくれと頼んだ覚えはないよ!」と「暴言」を吐くシーンがありますが、これは暴言でも何でもなく「当たり前の話」です。なぜなら「産んでくれ」と親に頼んで生まれてきた赤ちゃんなどいないからです。
要は何が言いたいのかというと、子どもを産むのは100%親の意志、であるなら子育てに100%の責任を持つのは親として当然の責務、その覚悟と育てる環境が整っていない限り子どもを産むことは許されないということです。「育ててやっているのだから感謝しろ」「親の期待に応えろ」「親の老後の面倒を見ろ」「孫の顔を早く見せろ」とはおかしな話。子育ては親の義務であり、子どもに感謝や親のエゴを強要するためのものではないからです。
産んだ子どもを全身全霊掛けて大切に育てるのは親の義務。親の意志で産んだ以上、それを放棄することは許されない。
それは親にとって恐怖と緊張に満ちたものであるはずです。子育ては失敗が許されない自分(親)の一大事業でもあるからです。
しかし、その覚悟を子どもが成人するまで忘れないことが大切です。
次回に続きます。