なぜ国語ができないのか?②
2016年6月08日
続きです。
小学校でも受験主要科目である算国理社を学びます。そして、国語以外の三教科は小学校での授業と塾での授業との間に「教え方」という点で特別に差があるわけではありません。「何を学ばせるか」「何を知ってほしいか」という点で方向性が同じだからです。ですから、中学受験を目指す生徒さんには学校の授業も疎かにしてはいけないと伝えています。
しかし、国語は違います。小学校では例えば「物語文」ですと「主人公の気持ちになって考えて」「あなたならどのように考えますか」というように、どれだけ感情移入できるか、どれだけ自分の考えを表現できるか、といった「情緒面での主観的感情表現の多様性」に重きが置かれているような気がしてなりません。ですから、読書感想文を書かせても「A君はこういう見方をしているね」「一方Bさんのこういう見方もアリだね」というように、多様な考え方があると「それだけ物の見方が豊富なのだ」と、そこで評価してしまいます。ですから読書感想文で×をもらう生徒はよほど誤字脱字が多かったからで、物の見方・考え方を否定されての×は存在しない。つまり、読書感想文では「基本的に全員正解」になるのがオチなのです。
この小学校での授業をベースにして、中学受験の国語に臨むと痛い目に遭います。考えてみれば当たり前のことです。何でもかんでもアリの「全員正解」になるようなテストなど存在してはいけないからです。それを理解せず「小学校での国語の学習」=「中学受験のための国語の学習」と考えると、(大げさな話ではなく)一生国語の学習法がわからずじまいで終わってしまいます。
小学校での「感性豊かな・・授業」を否定するつもりはありませんし、そこに重きが置かれていることも理解していますが、中学受験の国語のテストの趣旨(狙い)は全く別のところにあります。それに早く気付けるか、気付かないまま小学校でのやり方をそのまま受験勉強に持ち込むのか、時間が経てば経つほど両者間で学力の差が広がっていきます。
国語の成績は短期では上がらない、というのは「こびりついた従来通りの悪しき国語の癖」を剥がし、矯正するのに時間がかかるという意味です。
その意味がわからず「国語の成績がすぐに上がらない、いやになった」と、すぐに投げ出してしまうような短気な人は、最後まで「正しい国語の学習」に気付かないまま終わってしまうでしょう。
まあそもそも、科目を問わず短気な親子に「受験の神様」が微笑むわけはないのですか・・・
次回に続きます。