自主的に勉強する子どもに育てる。 ④
2014年3月14日
前回の続きですが お子さんの幼児期から「親が与えれば子は応える」という流れをうまく確立させていくことが大事です。しかし、それを狙って打算的に「与える」ではいけません。そこに子に対する心からの愛情がこもっていなければただの「おべっか・甘やかし」になってしまいます。お子さんは幼いながらもその辺のことはちゃんと見抜いています。もう一度申します。「自然に湧き出る心からの愛情」。これが伴わなければ意味がありません。
「勉強のできないお子さん」を抱えた家庭では例外なく親が怒ってばかりいます。「強制する親」と「反抗する子ども」の図が日常的で、この環境から好循環が生まれることはないのですが、不思議と後生大事にこの関係を保ったまま過ごされていることが多いのです。
どうして子どもが勉強しなかったり成績が悪かったりすると親は腹が立ったり不安になったりするのでしょう?前回もお話しした通り、親は泣き叫ぶ子どもそのものに腹を立てるのではなく、自分を理不尽な立場に追いやった子どもの行為に腹を立てているのです。つまり「自分が大事」ということです。
何回かお話ししていますが日本は未だ学歴社会です。私はこのシステムを否定しません。学力は努力の結果ですので、学歴でその人となりをある程度判断するのは決して不合理なことではないと考えるからです。このお話も以前させていただきました。
しかし、それが加熱し「勉強できない子どもには未来がない」などと極論を出してしまうようになると、親は子の学力の改善に気持ちが焦り、それがお子さんへの負担となり子どもを直撃します。学歴社会の問題点は親の視野を狭くするだけではなく、お子さんのさまざまな長所を見落としてしまったり結果的に認めなかったりすることです。また、家庭内で親子が対立するきっかけにもなってしまうことです。
お子さんが五体満足で生まれたこと自体が喜びだったはずがその喜びはどこへやら、次には早く這え、立て、歩め、話せと、「早く早く」を促す存在となってしまう親。
これは「子どものためを思って」というより、育児書などに書かれてある「歩き始める平均的な時期」に遅れたくない遅れることへの不安、近所の同じ年頃の子どもより早く話せるようになると少し安心する、「早く早く」を促すのは自分にかかる負担を先延ばしにしたくないなど、「理不尽な状況に追い込まれたくない」という親のエゴがそこに少なからず含まれています。
「勉強しなさい」と口うるさい親御さんは「子どものために」そう言うのでしょうが、心の深いところでは「勉強できないと学歴社会で生き残っていけない、負け組と称される立場に子どもが追いやられる可能性が高くなる。そうなると、当初描いていた「自分の理想としている子ども像」から遠のいていく。そんなことに気を揉みながらの不安な立場に自分の身を置きたくない」「子どもの成績が伸び、御三家にでも入れればその喜びを心の支えにできる、とりあえず一安心」というのがあるのではないでしょうか?つまり、自分を守りたいんですね、親は。そして、自分の利の為に結果的に子どもを利用してしまっている。
少し話が逸れました。次回に続きます。