中学受験をする意義とは ①
2014年2月16日
今年も入試は終わりました。毎年のことですが2月は塾講師にとってお腹の痛くなる月です。個々の生徒の合否に一喜一憂しながら過ごしてまいりましたが、それなりの結果を収めることができ無事終了しました。「それなりの結果」とは、「最上とまではいかないものの、不本意な結果にはならなかった、受験して良かったと思える結末」を指します。これを毎年積み重ねることが当塾のモットーです。
「御三家合格何名!」を高らかに謳い、その生徒たちにだけスポットを当て商目的で「利用する」ことがここ最近の他塾さんの傾向のようです。私は受験し頑張って合格を勝ち取った生徒は御三家だろうがそうでなかろうが皆主人公だと思っていますので、「御三家合格実績作り云々」にはあまり興味がありません。そこに巻き込まれたくないというのが本音です。私の20年のキャリアから言えることは、御三家レベルの学校に合格する生徒というのは元々の能力が高く、どこの塾に通っていても結局受かってしまうということです。出身塾は正直申し上げてさほど関係ありません。それを「合格できたのは全て自分たちのお蔭」のように言う塾があるとすれば何とおこがましく品性の無いことか。謙虚じゃないんですね。そう思うのは私だけでしょうか?
さて、中学受験をする意義ですが、まさかこのご時世で「私立の中学にさえ合格できれば安心」「御三家に入れたのだから人生安泰」などと考えている方はいませんよね。18歳までは順風満帆だとしても、受験はその先の60年までも保障してくれるわけではないからです。
仮に御三家→東大→一流企業への就職という流れの中でバラ色の人生を見出そうとしても無理があります。企業の合理化の中で年収は(多い部類に入るとは言え)抑えられ、人件費抑制のため拘束時間は長くなり結果過酷な労働を強いられ、また家族を持てば(年収が多いのに比例して)不可分所得が増えるなど・・ヘトヘトのままで定年を迎えそうな未来の光景が目に浮かぶからです。
こんな将来になるかもしれないのに。だったら、なぜ受験するの?「僕は開成の生徒です」「娘は桜蔭に通ってます」って自慢したいから?だけどそれで優越感に浸れるのも最初だけで、あまり言いすぎると逆に「鼻持ちならない奴」と嫌われてしまうから気をつけよう。
そうでした。受験する意義ですね。最初に戻りましょう。
ですが、このお話は次回へ。本日は余計なことを書き過ぎました。