中学受験の意義。②
2013年2月22日
中学受験はここ最近、
1.無理な受験はしないさせない。2.学力がピークに達したときのことを想定し、その上限に当たるであろう学校を第一志望校とする。3.将来、高校受験をすることまでを視野に入れた中学受験にする(受験を一種のイベントとして考える)
という傾向が目立ってきた、と、先日はそこまでのお話しでした。
今回はその続きです。
「中学受験を何のためにやるのですか?」と問われたとき、いったい当事者はどのような回答をするものなのでしょうか?
「決まっているでしょ。できれば偏差値の高い(御三家など)に入るべく努力をし、めでたく合格証書をいただいた後は、そこで6年間充実した生活を過ごし、できれば東大に入り、安定した会社に就職し・・」みたいな話をするのでしょうか?なんだか「ステレオタイプの教育ママ」のような例を書いてしまいましたが、口にするのは恥ずかしいまでも、心の中ではそれを意識されている方が多いのではないでしょうか?
私はこれを否定しません。なぜなら実際このような動機で受験される方は古今問わず主流だからです。ですから、それがわかっている塾講師の私が受験の動機まで言及するといった野暮なことをするはずもありません。
ただ、御三家に入ることで、必ず東大に行ける訳でも、安定した企業に就職できる訳でもない、そもそも「安定」とか、「将来が約束された」などというのは(生きていれば常に順風満帆とは限りませんので)幻想に過ぎず、そのことに「とっくに」気づかれている方も多い。ですから「だったら、うちの子には今のうちから好きなことをやらせて楽しい小学校時代を過ごさせたい。勉強なんかやったって意味がないからやらせない」と「開き直る」親が増えているのも事実です。つまり、昨今は「受験に価値を見出す親」と「受験に価値を見出せない親」という二極化にあるわけですね。しかし、それぞれに考え方があるわけですから私はどちらの立場も「アリ」だと思います。
ただ、一つ言えることは「小学校時代に頑張ったこと、何かを犠牲にして目標に向かい努力したこと」は受験の合否には関係なく得がたい尊い体験であるということです。これは勉強に限った話ではなく、スポーツでも何に対しても言えることです。
私もかつては「合格至上主義者」「結果第一主義者」で、何人「御三家」に合格させたかそのことに血道をあげ、そこに塾の価値があると思い続けたこともあります。(正直申し上げて御三家の合否のほとんどは本人の素質・努力・家庭での教育環境に影響されます。ですので、たとえ合格したとしても塾はほんのお手伝いをさせていただいたという程度ですので、塾関係者は「我々が受からせた」などと驕ることなく謙虚であるべきだと思います)。
塾講師だからそんなのは「当たり前」だと言われればなるほどそうですが、それ以上の価値を受験を通して見出せないか、それを日頃追い求めてきたことも事実です。
受験から何が見えてくるのか?そもそも「受験の意義とは?」
そのお話を次回以降も続けてまいります。